道南の秀峰・駒ヶ岳。同名の山は長野や山梨などにもあるが、北海道のは姿がよいので、 本州からの旅行者にほめられている。 裏側から見て、これを“釈迦涅槃像”だなどと有難いことをいった人もあるが、やはり 名のとおり、なんとなくウマに見える。 江戸時代には内浦の獄とよばれていたのであり、これは内浦湾(噴火湾)に面している からであった。また砂原のほうから見て砂原岳ともいうが、この名はあまり知られていない。 駒ヶ岳という名の由来については、おもしろい話がある。 五百年もの昔、相原季胤という豪族がいた。この男、矢越岬の海神の怒りを鎮めるといって、 かわいいアイヌのメノコ二十数人を海に沈めてしまった。勿体ないことをしたものである。 そのためにアイヌからたいへんな恨みをうけ、ついに攻められて二人の娘をつれて、 大沼に身を投げて死んでしまった。 |
そのとき、その愛馬に、一刻も早く山上に逃げ去るように いい聞かせて入水したという。するとそのウマは、狂気の ように山上にかけ上ったといわれ、いらいこの山を駒ヶ岳と いうようになったというのである。 そして季胤が入水した七月三日には、かならずウマの なき声が聞えてくるというのである。またこの山に神馬が いたという話がある。 |
それはカミも尾も地に引くように長かったとか、青毛と栗毛の二頭だとか、 鳥が飛ぶように速やかったとか、いろいろいわれているが、松前十三世道広は、 ウマが大好きだったため、これを捕ろうとして役人に事実を調査させ、牝馬をおとりに 放したが、道広と親交の深かった滝沢馬琴(八犬伝の著者)が、これを知って、古今東西の 神馬のたたりの例をあげて、それを捕えることを中止するよう忠告したため、 道広は“そいつはウマくない”といって、止めたのだそうだ。 |
北の夜話−道南伝説の旅− より抜粋 著者:須藤たかし(須藤隆仙) 昭和4年上磯町生。大正大学卒業。現在函館市称名寺執事。 著書として「北海道と宗教人」「日本仏教の北限」「函館のおいたち」 「えぞ切支丹史」その他多数。 |