振り返ってみる我が家の百年
明治38年(1905年)創業
初代 竹林 由次郎・サト
竹林由次郎は明治7年(1874年富山県
結婚後二人は大阪に出て資金を蓄え、明治37年函館の富山県出身者をたよりに来函し明治38年現在地で開業し酒類・食品・雑貨などを商った。 当初は函館近郊地域まで行商し、帰路はそこで産される農作物を買い取り荷車に積んでそれを店頭販売した。 店は繁盛し次第に人手も必要になり奉公人も置くようになる。初代由次郎・サト夫妻は創業者として店の基盤作りに良く働いた。 由次郎は起業家タイプらしく行動的でベンチャー精神旺盛で数々の事業を手がけた。五稜郭公園の内堀で鯉の養殖を試みたのもその一例である。 函館西本願寺西別院の世話役、地域活動、町内会長などでも積極的に活動した。
創業時代の出来事
【世界】 | 日露戦争勃発 |
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【日本】 | 与謝野晶子が"君死にたもうことなかれ"(日露戦争に出征した弟を思いやった歌)を発表 |
【函館】 | 函館駅が開業、小樽-函館間の鉄道が開通し函館本線が全面開通したことにより函館は道南の拠点としていっそう賑わいを増した |
昭和18年(1943年)継承
二代目 竹林 知明・八重枝
1943年初代由次郎の死去により竹林知明・八重枝が継承。
竹林知明は富山県婦負郡
二代目時代の出来事
【世界】 | 真珠湾攻撃・太平洋戦争勃発 |
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【日本】 | 広島・長崎に原子爆弾投下、終戦、湯川秀樹ノーベル賞受賞 |
【函館】 | 函館空襲、北洋漁業再開、15号台風、洞爺丸沈没 |
昭和31年(1956年)継承
三代目 竹林 朔三・純代
1956年二代目知明の死去により竹林朔三・純代が継承。三代目竹林朔三は店の経営改革を考え卸業務を別会社として分離し、 1961年酒類たばこ食料品小売部門を法人化し合名会社丸竹竹林商店とした。店の立地が国道5号線に面しており交通量も多く、また後背地の中央埠頭、万代埠頭が整備され合同港湾庁舎も落成、税関が移転入したことにより大型外航船舶の出入港が多くなり、 店の酒類食料品たばこなどの船舶納入業務が増大した。1979年日本専売公社(JTの前身)のA種輸出会社に認定され外航船向免税たばこ卸業務を行うようになる(国産たばこ)。函館港で一社であった。1993年外国たばこラークなどの製造メーカーフィリップ・モリス社の函館港で一社の特約店となり外国輸入たばこの外航船舶納入卸業務を行うようになる。北洋漁業さけ・ます漁再開を受け業務は急拡大する。
その一方店頭販売業務の活性化を図り店舗住宅を新築し、その中核的戦略として日本全国の希少日本酒の取り扱いで酒類部門の独自性・専門性を高めた。新潟県石本酒造・新潟県丸山酒造・新潟県八海醸造・新潟県宮尾酒造・富山県立山酒造・石川県菊姫合資会社・岐阜県三千盛・岩手県菊の司酒造・青森県西田酒造店などの特約店となり、折からの地酒ブーム・日本酒ブームの順風を受けて函館における独自性の強い酒小売店の一角となる。その業務は日本国内の個人向け宅配物流システムの発達を活用し繁盛を博した。
1995年(平成5年)奉職する三代目の長男智則が国民的作家・司馬遼太郎氏の熱心な愛読者であったことからその献策を入れ、かねてからの課題であった地域に根ざした店独自のオリジナル・ブランド酒の企画を司馬氏に申し入れたところ快諾を受ける。酒名は「菜の花の沖」。函館を根拠地とし後に日露間の外交問題を解決に導いた豪商高田屋嘉兵衛の波乱に満ちた生涯を描いた司馬氏の同名小説からつけた。岩手県盛岡市の菊の司酒造株式会社に生産を依頼。翌1996年7月から販売を始める。
現在までの出来事
【世界】 | ソ連ガカーリン人類初の宇宙飛行 ケネディ大統領暗殺 アポロ11号人類初の月面着陸 アメリカ同時多発テロ |
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【日本】 | 神武景気はじまる 高度経済成長 東京オリンピック開催 東海道新幹線開通 |
【函館】 | 函館空港完成 青函トンネル開通 |
2005年1月、100年のあいだ多くのお客様に有形無形のご支援お引き立てを賜わりましたことを心から感謝し、これからもご信頼にお答えするために品揃えの充実とサービスの向上を目指して参ります。
波絶え間なく、夢果てしなく。
私どもはお客様のご支援ご鞭撻のもと21世紀にチャレンジ致します。
どうぞよろしくお願い申し上げます。