寛政八年(一七九六年)、鯨の群れが汐を吹く初夏の箱館湾に、巨大な北前船を駆って入港した男。その名は高田屋嘉兵衛。彼は箱館を経営活動の本拠地とし、北方航路の開発、北海道、千島の漁場開拓などの事業に進出。しかも、その事業であげた莫大な利益を、港湾・道路整備、地場産業の育成など、さまざまな形で社会に還元するという、近代的経営を実践しながら、事業家としての地位を確立していきました。かつて蝦夷地の一寒村にすぎなかった箱館は、こうして北方の一大都市として発展していくのです。
後に、当時緊迫していた日露間の紛争に巻き込まれた嘉兵衛は、遠く極寒のカムチャッカに幽閉されました、しかし、一民間人でありながらその身を挺して紛争を解決に導き、日露外交史に大いなる一歩を残していることから伺えるように、嘉兵衛は豊かな国際感覚の持ち主でもありました。
北の海に大いなるロマンを追い求め、波乱の人生を帆走し続けた一人の男・高田屋嘉兵衛が、その命を全うする場所に選んだのは郷里・淡路島でした。嘉兵衛はそこで、菜の花畑一面の黄色い花を見つめながら、北方の情勢を案じていたといわれています。
『一面に広がる菜の花畑と、その向こうにたゆとう穏やかな春の海』―嘉兵衛が愛したこの風景を封じ込めた酒をつくりたい-そんな私たちの夢が、ついに現実のものとなりました。作家・司馬遼太郎先生が、嘉兵衛の生涯を描いた作品『菜の花の沖』を酒命としていただき、名酒蔵元・菊の司酒造の協力を得て、北方へと馳せた嘉兵衛の想いが、いまここに蘇ったのです。
北前船とは、近畿地方から塩、灘の酒、着物などの生活物質を、蝦夷地へ運んでは、昆布、鮭、鰊などの海産物を持ち帰るという、日本海を舞台に活躍していた交易船でした。なかでも清酒は重要なものであり、水田も酒造技術も持たなかった当時の蝦夷地においては、特に貴重なものだったといわれています。嘉兵衛もまた、北前船での長い航海で日本酒が劣化しないよう、常に心を砕いたことでしょう。高田屋の荷は日本全国検品なしで取り引きされたというほど、厳正な品質管理を実践していた嘉兵衛。彼は、日本酒の酒質においても相当な眼力をもっていたに違いありません。
この酒を、嘉兵衛の眼鏡にかなう名酒に育て上げることが、函館発展の礎を築いた人物への恩返しとなることを信じて、いま、『菜の花の沖』は大海原へと漕ぎはじめました。
まだまだ発展途上の酒ではございますが、嘉兵衛の想いとともにお楽しみいただければ幸いです。
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